「部分メンター」を持つということ。


こないだ友達と話していて「メンター」という言葉が響いたのでブログに書くことにしました。
メンターとは、「お手本となる人」「ときに助言をくれる指導者」などという意味の言葉で、私も何人か勝手にメンターとしている人がいます。

私のメンターは1人だけではなく、片付けのスタンスはこの人、食事の摂り方はこの人、写真の撮り方はこの人、というように、ジャンル別に、それぞれ複数います。
お酒を飲んでからの切り上げ方とか、人への箸の渡し方とか、とても細かい部分のメンターもいます。
周囲の人のほかにも芸能人、文化人など直接知らない人の発信をメンターにすることもあります。

そして、もちろんメンターのあり方をそっくりそのまま真似するのではなく、その人のあり方の「こうなりたい」という要素を抽出して、自分にフィットするように落とし込んでから行動に反映しています。

たとえば「食事の準備がかったるい」と思うときは、いつもおいしそうな料理を楽しくしている友達のブログを思い浮かべます。「掃除が面倒」と思うときは、水拭きをルーティンにしている取材先の方を思い浮かべます。すると、私もこうありたかったんだ!と思い出して、「面倒くさい」というエゴの声を振り切り、行動に移すことができます。

メンターを持つ=その人に依存するとか、自分軸を失う、ということではないと思うんですよ。
たしかに、メンターを1人に絞ると、その人に依存したり。逆にちょっとでも自分と合わないと思うところを知ると、勝手に失望したりするようなこともあると思います(私もそういうことがありました)。そもそも、他人の全てを把握するなんてことは無理な話なのですがね。

1人の人=1つの色に執着するのではなく、世の中を見渡してみて、自分が心から好きな色を切り取って、自分という貼り絵を作り上げるような感じでしょうか。

「本当はこうありたい」という魂の叫びを大切にして、「どうせ無理」「自分なんて」「面倒くさい」というエゴの壁を打開して行動していくと、毎日が快適でワクワクするものになるなーと実感していて、そのために部分メンターを持つことはひとつの手だと思います。
エゴの壁って悪者ではなく、自分を守ってくれるシェルターにもなるものなので、守りに入るときは大切だけど、変わりたいときは打開することも大切です。

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